昨日の肉と、今日のチョコ

人生は美味しいと楽しい、それだけがいい

好きなひとへの贈り物とラブについて

恋人への贈り物を考える時はいつもヤバイクスリをキメたかのような高揚感で浮き足立ってしまう。無論、そんなものキメたことはないけれど。

 

そういえばあの時もこんな気持ちだったなと思い出す。

かつての恋人に大学の卒業祝いを買った時も、今と同じようにうきうきとドキドキが最高潮に達してショーケースの前で涙を浮かべながら選んだ。

結局、あげた数日前におばあちゃんにカルティエを買ってもらったという圧倒的な理由に勝てるはずもなく、お情けでたった一度着けてくれた以降陽の目を見ることはなかったわたしのディーゼル

たぶん、いまは埋め立てられて東京の一部になっていることでしょう。

 

とにかく、誰か、特に大切な人に贈り物をする時のあのまさしく"浮き足立つ"感じ。3cmくらいは浮いてるに違いないあれ。

 

喜んでくれるかな、どれが好きかな、これが似合いそうだな、でもこっちの方がいいかな、ああでもこれもいいな

いろんなことがぐるぐる頭をまわって、選べば選ぶほど混乱してくるのに、その時間が楽しくてたまらない。

それは単純に、頭の中がだいすきなひとでいっぱいになるからかもしれないね。

あの人の笑顔とか、驚いた顔とか、そういう自分が知ってる限りの表情を思い浮かべながら勝手なアテレコをしてめっちゃ喜んでくれるというご都合主義な妄想を繰り広げる。

 

散々悩んで悩んで、不安をひと抱きしながら渡すその瞬間までが、贈り物には詰まっている。

そう思うと、贈り物、尊すぎる。

 

自分が貰う側だと考えてみてよ。

だいすきなひとが自分のことで頭をいっぱいにしてたくさん悩んで(まあもしかしたら全く悩まず買うこともあるかもしれないけど)これだと決めてドキドキしながら今差し出しているのかと思ったら、プレゼントとはなんて愛おしいんだ!!!と叫びだしたくなりませんか。

 

などといま5cmほど浮きながら書いています。

今年の誕生日プレゼントを、果たして恋人は喜んでくれるでしょうか。

ドキドキが詰まりすぎて重いプレゼントを隠し持って、とびきり可愛い女の子になって、ひとつ年が離れた恋人に会いに行く。

 

優しさという暴力

いまはその優しさがつらい、とかつての恋人に言われたことがある。

いまならわかる、優しさは暴力だ。

 

当時のわたしは、傷ついてボロボロになっているあの人がとにかく少しでも楽になってくれたらいいと必死だった。

いろんな言葉をかけたし、あの人が好きだったチョコレートも送った。

ただ笑って欲しくて、ただ元気になって欲しくて、全部よかれと思ってやったこと。

 

「今はあの子以外からの優しさがつらい」

優しさを拒絶されるなんて思ってもみなかった。

今思えばなんて幸せな人だったんだわたしは。

優しくするということは、相手にその"優しさ"を押し付けるということなんだと思う。

わたしたちはそれを拒否しちゃいけない、だって誰かが自分のためを思ってしてくれたことだから。

それを拒否するのは嫌な奴だから。ひどい人だから。

 

でも本当にそうなのでしょうか。

優しさは、誰かに受け取られてはじめて優しさになる。

優しくされたらそれを受け入れなきゃいけないなんて、そんな苦しいことってない。

誰かが優しくしてくれる、自分のためを思って最大限の配慮をしてくれる、それに感謝して、言葉や行動をありがたく頂戴する。

 

それが、苦しいこともある。

 

誰かが自分にかけてくれる思いを受け取ることが苦しくて仕方がない。

だけど自分を思ってしてくれているのだからとその暴力に静かに耐える。

 

誰かの思いを受け止めるのはとてつもないエネルギーを要する。

愛される覚悟、優しくされる強さ。

 

ただれた体に水を与えたら人が死ぬように、愛や優しさも、いつか誰かを殺すかもしれない。

そのとき誰を責められるのか。

 

誰が悪いわけでもない。そう言って欲しい、優しさを受け止められないことはひどいことじゃないよと言って欲しい。

 

優しさは暴力だ。

わたしもまた誰かを傷つけて生きている。

 

顎が外れるほどのあくびがしたい

突然だけどわたしは顎を外したことがない。

大あくびをすると「うわっあと5mmで外れるっ...!!!」みたいな顎関節の限界を感じることはあっても22年間まだ顎を外した経験がない。

majiで外れる5秒前にセーブをかけているんだと思います、だって顎外れるとめちゃくちゃ痛いって言うじゃないですか。

 

例えるなら...

さらに突然なんの話だって感じですけど、いわゆる「イくのが怖い女の子」に近いんじゃないかと思われます。

その先の快楽が恐怖で絶頂を拒否するという女子がこの世にはいるっぽいんですけど、そういう方々はもしかしたらこの気持ちをちょっとわかってくれるかもしれない。

 

顎を外したらたぶんめっちゃ痛い。でも顎が外れるくらいの大あくびができたらめちゃくちゃ気持ちいいんじゃないだろうか...でも、怖い!無理無理無理!!

 

快楽は常に恐怖と表裏一体。

快楽と恐怖、とるべきはどちらか。

選ぶのも溺れるのも自分次第。

ただどちらも自己責任なんですが、前述の女子たちは快楽を、わたしは恐怖をとったほうがいい可能性が高い。

 

 

ちなみに大あくびの最中に顎が外れそうになった時はできるだけ口を横に開こうとしながら少ししゃくれると顎関節をはめたままそこそこのあくびができます。

ただし、あくびそのものを嚙み殺そうとしたり、しゃくれに失敗すると"舌及び舌の付け根がつる"という信じられないことが起きるので気をつけて。

 

顎が外れるほどの大あくびに成功した方がいたら主に快楽にフォーカスして話をお聞かせください。

こちらからは以上です。

重い足でぬかるむ春を行くースピッツ『春の歌』

春ってなんでこんなに気持ちがいいんだ!!!!

思わずそう叫びたくなるくらい、今日の東京は春だった。

昼休みに厚手のセーター1枚だけで明るい日差しの街を歩いたのがとても良くて、顔を寄せ合うラナンキュラスが可愛すぎて、だいたいのことがどうでもよくなってしまった。

 

今朝は、今日こそはもう会社に行きたくないと泣きながら化粧をしたはずなのに。

うつ病の特効薬はもしかしたら春なのかもしれないな。

そうだとしたらあれだ、日本はずっと春にしといたほうがいい。

インドにうつ病がいないのは香辛料のおかげだけじゃなくて、なんとなく全てが楽しいかもしれないと思わせる街中の雰囲気のせいなんじゃないかしら。

まあ、インドの地を踏んだことは一度もないんですけど。

 

わたしもう22歳なんですよね。なんならもうすぐ23歳になっちゃう。

だからもう親のことを理由にしちゃダメだと思うんですよ。

親がどうだろうとそれはもうわたしの問題で、親のことを言い訳にはできない。

 

親の離婚裁判にあたって、今まで父親にされてきたことをたっぷりまとめ上げるという作業、なかなかにキツいものしかない。

何より、母親の思いを受け止めなきゃいけないんですよね。

ふたりぶんの苦しいを背負う感じ。ひとりぶんでも苦しいことは苦しいのに、ふたりぶん背負うのがなかなかキツい。

でも、それはなんの理由にもならないししちゃいけないんじゃないかと思う。

 

わたしがうつ状態にある原因が親のことだったとしても、今日どうしても具合が悪いんですはわたしの問題だから親のせいではないんだよ。

大人になるというのは、すべての責任を自分で持つということ。

 

今日休んだら明日も明後日も、もうこの先2度と仕事に行けなくなる。

そう思うと休むことができない。

泣きながら支度をして、何事もない笑顔で電話を取り次いで、帰ってきてひとりシャワーを浴びながら泣く。

その繰り返しで毎日がすぎる。

 

それでも、あったかい春の下を歩いたら、ひらひらふわふわしたラナンキュラスが顔を寄せ合う姿をみたら、ひとりへらへら笑っちゃう。

だから春はすごい。春は、悲しいことを全部どうでもよくしてくれる。春はすごい。

 

わたしはもう22歳で、もうすぐ社会人も2年目に入る。

もう全てが自分の責任で生きていかんきゃいけない。

でも来年もまた春はくるんだよ、凄いことにまた来年も春は来る。

その次もまだ春は来る。

夏秋冬と病んでも、春だけは不審者のはしくれほどに笑いながら過ごせたらそれでもいいかなと思う。

 

春がくる限りまだなんとか、やれるかもしれない。

 

 

などと仕事中に考えていました。

それでは聞いてください、スピッツで『春の歌』。

幸せになりたいのなら努力しろ

12本のバラの花束を「ダズンローズ」と呼びます。

12本それぞれに、感謝・誠実・幸福・信頼・希望・愛情・情熱・真実・尊敬・栄光・努力・永遠の意味が込められた特別な花束。

かつてヨーロッパの結婚式では、新郎がダズンローズの全てを誓い、新婦がその中でいちばん大事だと思う1本を返すことで結婚を受け入れる証としました。

 

 

わたしはさえりさん以下逃げ恥のみくり程度には妄想癖があるので、考えるわけです。

「もし恋人にダズンローズでプロポーズされたら...?」

 

あいにくわたしの恋人は、恐らく現実ではダズンローズなんてキザなことはしない人ですが、妄想は素晴らしきかな、するんですよ、ひょろっとした体ですっと通った高い鼻筋に眼鏡を乗せたあの人が、ダズンローズでわたしにプロポーズをする。

わたしはええ〜!?とか驚きつつもちょっと涙を浮かべて、でも思わず笑っちゃう。

「本気〜!?」なんて口元をちょっと抑えながら。

それで、差し出された花束から1本抜いて彼に差し出します。

本当のブーケだったら保水してラッピングしてあるところから1本を抜くなんて無理ですけど妄想だからすっと抜ける。

ひと呼吸置いてから、言う。

 

「わたしは、あなたに幸せにしてほしいわけじゃない、だからこの1本を返します。

わたしは、目の前のこの人と幸せになりたいと思う、幸せになるためのどんな努力も惜しまずにしたいと思える。

人生はまだまだ全然長くて、何があるかなんて全くわからないけど、健やかなる時も病める時も幸せを諦めずに努力したいと思う。その努力を、一緒にしてくれたら、嬉しいです。」

 

幸せになれるのは努力をした人だけだ。

絶対に幸せにしてくれる人というのは恐らくいなくて。

どんなにきらきらでお高いケーキも絶対に美味しいとは限らない。

だからせめて、自分がきっとこれは美味しい食べたい!と思ったケーキを信じて選びたい。

料理やコーヒーも然り、手間をかけたら(恐らく大体は)その分美味しくなるのがこの世の常。

 

幸せは取捨選択と努力の賜物だと思う。

自分で信じる道を選んで、その結果を信じて勝ち取る。

もし買ったケーキが甘すぎたら、コーヒーを少し苦めに入れてみる。

もし甘さが足りないならチョコソースをかけてみる。もし生クリームがくどいなら全部はがしてしまえ。もし果物がまずいながら果物を全部避けたらいい。もし生地がまずいなら果物とクリームだけ食べよう。

もし多すぎたなら誰かを呼んで分け合って、もし足りなかったら明日も買おう。

あの手この手を繰り広げて、それでダメなら諦める。

美味しいものが食べたくて、これだ!と信じたものを選んで、美味しく食べる努力をして、それでも幸福になれなかったら、それを諦めたところで誰に文句を言われるというの。

 

幸せになりたかったのだから、不幸になりたかったんじゃないんだから、いついかなるときも幸せになる選択をし続けていい。

 

ただし、人のせいにはしちゃいけない。

自分が信じて選んで努力する、その覚悟をもっていなければいけない。

 

 

もし、幸せにしてくれる人がいるとしたらそれは、幸せになりたいという欲求を押し殺さずに生きられる人だと思います。

鬱なら休めばいいというのはそう簡単な話ではない

同期が休職した。

その数日前、ふたりで出かけて、ご飯が美味しいと思えなくなったから明日人事に辞めるって言おうと思うんだと軽く笑いながら言う彼女に、おーおーそんなのすぐ辞めたほうがいいなとわたしも軽く笑って返した。

もしわたしがあの日彼女の決断の背中を少しでも押せていたら、いいなと思う。

 

まだたった半年前。

わたしは2ヶ月の研修の後配属された店舗を、たった3ヶ月で辞めた。

辞めた、というか、現場ではなく本社勤務に移してもらったので、退いたと言うのが正しいのかな。

 

大好きで、誇りを持って就職先に選んだ接客業なのに、お客様が怖かった。

1日に何百とくる客、店内の汚れや店外を通る客や従業員、先輩や店長の機嫌、そう言う全部にとにかくとにかく気を使いながら14時間働く日々。

1ヶ月でおかしくなった。

ちょうど家の揉め事もひとつすごろくのますが進んだ時だった。

 

簡単に言えば親父がクソと言う話。

わたしはとにかく自分と家族が明日食べるもの、今日住む家を守るために、休むことはできなかった。

何をしてでも金が必要だった。

たとえ眠れずに出勤していこうが客が怖かろうが帰路の線路を見つめる時間が増えようが、それでも金が必要で、辞めることも休むこともできなかった。

 

ちがう、やめたかったし、やすみたかった。

でも怖くてできなかった。

自分はなにもできない、たとえ休んだって休んだらまた歩き出さなきゃいけないけどどこを歩いたらいいのかわからないから休めなかった。

 

だから、同期が休職すると聞いて安心した。

よかった、彼女が休むことを決めてよかったと思った。

 

休んだらいいよ辞めたらいいよ、わたしもそう簡単に言える。

でも実際、相当の覚悟と勇気がいる。

 

何が言いたいかは自分でももはやわからないんだけど、わたしも彼女も、そんなこともあったんだよなあと遠い目で語り合える日が来たらいいなと思う。