昨日の肉と、今日のチョコ

人生は美味しいと楽しい、それだけがいい

仕事、どう?

仕事をしていると毎日打ちのめされる。

 

フェイスブックの投稿でさえ、頭から煙が出るくらい何度も何度も書き直して2割でも納得できたら良い方。

何を言いたいのか、何を伝えたいのか、どうやったらそれが短い文章で伝わるのか、文章の温度感もいまだに掴めず毎日毎日悩みながら書いてる。

 

ああ今日も全然うまく書けなかったって不甲斐なさと一緒に歩く帰り道、

インスタグラムを開いたら、先輩が書いた新しい言葉が自社のポストながら胸に刺さる。

あーこのキャプション、ちょういいなあ...と思いながらいいねする。

悔しくて泣きそうにもなる。

 

わたしは、そんな風に、

誰かの中にぐっと刺さって、ああいいなあって思われるようなそんな文章を書けるようになりたい。

 

何回寝たらお正月がくるのかはわかっても、

何回書いたら誰かの心に言葉を響かせられるのかは全然わからない。

 

もしかしたらもっとシンプルでいいんじゃないか。肩肘張りすぎなんじゃないか。

でも、もしかしたらもっと考えなきゃいけないのかもしれない。もっと狙わなきゃいけないのかもしれない。もっと、もっと、もっと。

もっと才能があったらよかった。

才能がないわたしには無理なのかもしれない。

 

でも、みんなきっと同じように仕事してるって思ってもいいですか。

みんなもこうやって毎日打ちのめされながら、毎日反省しながら、毎日自分は向いてないのかもって思いながら、それでも辞めたくなくて頑張ってるって思ってもいいですか。

 

そうだとしたら、

頑張ろうね、みんなで。

会ったこともない顔も知らないみんなで。

 

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あなたの細胞ひとつさえ

高校2年の時、倫理がいちばん好きだった。でも授業で聞いたことの大半は忘れてしまって、ただひとつだけ、はっきりと覚えていることもある。

デカルト心身二元論

 

どれほど愛する人を失っても、どんなに苦しんでないて死にそうになっても、あなたの細胞ひとつさえ壊れてはくれない

 

当時もその言葉にハッとさせられたけど、大きな喪失を知った上で思い出すととんでもない威力だ。

 

どれだけ悲しいことが起ころうとも、傷つくのは心だけ。逆に言えば心は傷つき放題に傷つく。すり減ってすり減ってもうなくなるんじゃないかというくらいすり減ることもできる。

うつ病になるかもしれない。自殺を試みるかもしれない。2度と恋愛はできないと思うかもしれない。人間不信になるかもしれない。

大学2年の時、あの人との恋が終わった。罵倒、批判、時に暴力、支配と服従、怯え、執着、依存、そういう恋だった。でもたぶんあれは、愛だった。ほんの少しアイスピックが突いただけで粉々になるようなレプリカの愛だった。

それでも体が引きちぎれると思った、本気で。水さえろくに喉を通らず、ベッドから起き上がる気力さえなかった。恋愛ごときで、と馬鹿らしく情けなくも思うのに、心は壊れ体は動かなかった。

でも、わたしの細胞はなにひとつの変化もなかった。わたしはわたしのままだった。働かない頭にふと思い返されたあの言葉は、わたしを救った。

 

 

わたしはまだ若い。先々週、23になった。人生はまだまだ長い。

この先心もプライドもズタズタになる時もきっとある。でもその時まだ君は、細胞を失うわけじゃない。いくらだって再生していける。そうしようと思えば。

 

だから、傷つくことも、傷つけることも、恐れずに生きてほしい。自分の幸せをちゃんと選んでいってほしい。独りで戦うことも、たまにはやめた方がいい。

愛されることを、求めていい。幸せになりたいと願っていい。

 

細胞は悲しみを受けない。愛はどうだろう。「君の細胞ごと愛してるよ」と言われたら、細胞は喜びの分裂とか、するのだろうか。

 

恋ほど厄介なものはないのに、私たちは懲りずに誰かを好きになる。

戻れない道を戻れないと知っていて行く。茨の道さえかき分けて傷だらけになりながらもその道を行く。休むことはできない。引き返す道はない。道無き道を作り出して抜け出すより他ない。

 

誰かの細胞を愛することはできても、誰かの細胞を傷つけることはできない。だから愛は強いのだと思う。だからひとは、愛してるの響きで強くなれるのだ。

 

愛するという挑戦。

愛されるという覚悟。

どちらも、今のわたしにはない。でもなにがあろうと、わたしの細胞は死なない。

こい こひ 【恋】 《名・ス自他》

ダメだ、と思ったときにはもうダメになっている。


思い返せばわたしの恋はいつもそうだった。ちょっとずつ惹かれていくなんてことはなくて、するものではなくて、瞬間的に落ちる自動詞だった。
塾が一緒だった彼のくしゃっとした笑顔。忘れられないあの人の甘い香り。むやみに人に立ち入らない彼の空気感。

それから、たまごサンド。厚焼きのたまごサンドを食べる姿を見た瞬間、誰かがスイッチを押したみたいに床が開いて、底のない穴に落ちた。

 

 

迂闊だった。気が緩んでいた。
全ては、たまごサンドのせい。
厚焼きのたまごサンド、万年筆、ニットから覗くTシャツ、眼鏡の直し方、少し濃いグレーのニューバランス、長いコートと小ぶりなリュック、書類だらけのデスク、多い独り言、マグカップのデザイン。
全てに捉えられて、蜘蛛の巣にかかった蝶の気持ち。そういえばマッキーもそんな歌を歌ってた。

 

 

波のない穏やかな湖に似た恋。安心と信頼と、温くて手放すのが馬鹿らしいほどの恋。

雲の上のような人。山を登ったこともないくせに、エベレストを目指すような無謀さ。でも、頂上の景色を、見てみたい。

今ならまだ引き返せるのかどうかも分からずに、曲がりくねった道を行く。

誰のために何のために働きたいのか考えてみた

自分が何をしたらいいのかよく分からなくて、どうしたら自分にとっても会社にとっても気持ちがいい答えになるのかわからなかったけど、ずっと現場にいて最近本社勤務になった先輩に言われた言葉に非常に救われたので覚えておきたい。

 

めちゃくちゃに酔って据わった目で言われたけど、ハッキリと明瞭な言葉で微笑みながら言われたもんだから、もう少しここにこの会社にいたいと思ってしまった。

 

 

例えば、わたしもね、

今は9時に出社して18時に帰る生活をしているけど、

少し前まで会議の後に一緒にご飯を食べていた人たちは今も現場のマネージャーとしてすごく大変で、

でもそれは罪悪感を感じることではなくて、

周りのみんなも誰もわたしを狡いとは言わないんですよ

誰もわたしが楽をしているとは言わないんですよ

だからあなたの今も、同じように、

とてもおおきな流れでそこに収まったのだから、

それはあなたが引き寄せたのだから、

そこで何ができるかなって

そこで何をするかだと思うんですよ

 

だけどね、現場がすごく大変だというのは絶対に忘れちゃダメなんです

わたしもね、それは絶対に忘れちゃダメだと思ってる

本社に、現場がすごく大変だと分かってる人がいるということがすごく大事なんです

だからあなたはあなたのままで変わらず出来ることを出来るだけやればいいんですよ

「鬱」というものについて

おかしくなったのがいつかは正直もうよく分からない。

大学1年の夏だったとも言えるし、ここ2ヶ月くらいとも言える。

 

誰かのなんでもない小さな言葉にダメージを受けすぎる性格なのだとわかってはいても、そのなんでもない小さな言葉に大きなダメージを受けずにはいられない。

 

現場にいるときは日に13時間14時間の労働の中、お客様にも先輩にも店長にも100%以上で接したし常に笑顔は絶やさなかった。

それでも23時を回ってなお退勤時間のめどが立たない時なんかはゴミ捨て場に向かう地下通路を泣きながら歩いた。

疲れや機嫌が大人気ないほど現れる先輩や店長の態度は常にわたしを責めているように感じたし、自分がいかにその人たちにとって迷惑な存在なのかと考えるほど帰り道は線路を見つめた。

 

本社勤務に移ってからも、人に対して攻撃的な先輩の威圧的な言葉に傷ついては仕事中に薬を多飲したし、今でも些細な指摘が自分を全否定されているような気持ちにさせる。

 

親の離婚裁判もなかなかにあったまってきて、ここのところ提出用の陳述書を書いていた。

父親がどれだけ酷いことをしてきたか、それをわたしはどんな思いで見てきたか、何が真実か。過去20年を振り返って、その中でも思い出したくない記憶を細かく思い出して言葉にするという作業を毎日繰り返す。

ここの表現がどうだ、文末の語調を直せ、あれも加筆しろと毎日毎日仕事中も帰宅後も母親に書面の訂正を強いられること。もうとにかく苦しかった。

 

そろそろシャワーに紛れて泣くこともできなくなってきた。

呆れて笑うこともできないくらい苦しいのに涙が全然出ないのだ。

めちゃくちゃに泣いてどうにかしたい苦しさを吐き出すことも出来ず溜まる一方の日々は毎朝を苦痛にしていく。

睡眠薬を飲んで眠る、朝、なぜとは言えない絶望と一緒に重い体を起こして泣きながら化粧をする。

仕事が嫌なわけではないし上司が嫌なわけでもなくて、ただこの部屋からベットから出たくないというそういう類の感情だと思う。

弁護士代と食費のために仕事を辞めることも休むことも今は選択できない。どれほど苦痛でも、生活するための金を稼ぐ。

病気のデパートみたいな体で手術を控えた母親とろくでなしの姉、サイコパスで詐欺師の父親、その揉め事で親戚とも縁はないので金を頼る場所は自分の仕事か消費者金融くらいしかないのだ。

 

 

花を見て可愛いと思う。

パンを焼こうと思って平日の夜に作ることもある。

デートもするし恋人の誕生日プレゼントをウキウキしながら買ったりもした。

仕事にも繋がるようなセミナーに行く予定もある。

 

だけど常にピアノ線みたいな気持ちで生きてる。

デスクの目の前の大きな窓から見える空の明るさに泣きそうになったり、穏やかな春の風に泣きそうになったり、シャワーを頭から浴びながらうずくまって動けなくなったり、安定剤と眠剤を持たずに出掛けることは怖いし、今日もきっと睡眠薬で眠る。

 

鬱というもの、自分のことながらよく分からない。

こうやって辛い苦しいって文字にすることもできるという意味では全然良い方なんだろうなとも思う。

 

でも、他の人のことは知らんし、重症度だって分からんけども、どれほど好きな人がいても毎日漠然とした死を考えるよ。

もし周りに同じように病んでる人がいたら、鬱というのはああだこうだと知ろうとするより、この人はどうなんだとまっすぐじっくり見て考えてあげたらいいと思う。

本当に必要な救いは、適当に、ポテチいる?とかチョコあるよとか、いつもと変わらない温度だったりするもの。

ただあの人に選ばれたかった、それだけのこと

わたしには恋人がいます。

背が高く、必要最低限の筋肉と骨だけでできたような最高の体格で、唐突にこの世の心配をし出したり、チノパンのポケットに森永のミルクキャラメルを箱ごと入れてたりするような人です。

エスカレーターに乗っている時や信号待ちの間、何かの展示を見てる時、ただ歩いている時、ふいにぽんぽんと頭を撫でてくれたりします。

そういう時わたしは素知らぬ顔で居続けるけど、本当はとても嬉しい。

自分が犬だったら振りすぎた尻尾がそろそろ取れてもおかしくないなと最近真剣に思います。犬じゃなくてよかった。

 

少しだけ泣いてもいいですかと肩に顔を埋めれば、うんとだけ言って、理由も聞かずに泣き止むまで頭を撫でてくれたこともあります。

その時、「ああ泣いても怒られないってこんなに幸せなんだ」と知りました。

 

でも、それでもわたしは、デート中に泣いたらウザいと言って帰っていったあの人のことを一生忘れることはたぶんできない。

 

恋人のことはとてもとても大切で大好き。ただ一生忘れられない人がわたしの中にいる。

なんてずるい話だろうと自分でも思います。

 

愛してるけど好きじゃない、それはこういうことなのかもしれない。

酔っ払ってベッドに大の字で寝転びながら、元カノの名前を何度も呼んでは愛してるから幸せになってよと泣いたあの人。当時はどんな顔をしたらいいのか分からずただ足元に立ってその姿を見続けるしかできなかったわたしだけど、今はじめてあの人のことがわかった気がします。

 

看取りたいと思った。この人が最期に見る顔がわたしであってほしいと思った。

「君が悲しむから君より先には死なない」などと言いきったあのキザな顔を、生涯忘れることはないんだろうと思います。

 

ひたすらに、愛されたかった。ずっと大事にされたかった。でもあの人が選んだのはわたしじゃなかった、それだけのこと。

それだけのことを何年も何年も反芻し続けているのに未だに当時と同じだけ泣かずにはいられないのはなぜなんだ。

振られた帰り道を、ついさっき自分を振った人間と電話しながら歩いた。2人でよく行った恵比寿の一風堂に着いたところで、もういい?って言われたこと。

白丸を見ても一切の食欲が湧かなかったのはあの一度だけ。

食べきれずに残して帰った。

 

誰かを愛するというのは、とても怖いことです。

心の全てを預けてしまえば、支えを失った時にそれまでどうやって生きてきたのかこれからどうやって生きたらいいのか右も左もわからなくなる。

でも誰かを愛さずにはいられないんですよね、馬鹿みたいですけど。

埋まらない穴を抱き続けて、柔らかい場所で別の誰かを抱きとめる。

最低と言われたら返す言葉はない。

 

愛してしまったからねと呟くしかない。

 

この世の全女子が二枚貝なわけじゃない。

蛤のお吸い物を飲んでも番がいなければ意味がない。

一枚貝は岩を見つけるしかないんです、どこかへ行ってしまうことのない大きくて強い岩にしがみつくしかないんです。

 

生まれる前に失ってしまった片貝よりも強くわたしを抱く誰かに。

好きなひとへの贈り物とラブについて

恋人への贈り物を考える時はいつもヤバイクスリをキメたかのような高揚感で浮き足立ってしまう。無論、そんなものキメたことはないけれど。

 

そういえばあの時もこんな気持ちだったなと思い出す。

かつての恋人に大学の卒業祝いを買った時も、今と同じようにうきうきとドキドキが最高潮に達してショーケースの前で涙を浮かべながら選んだ。

結局、あげた数日前におばあちゃんにカルティエを買ってもらったという圧倒的な理由に勝てるはずもなく、お情けでたった一度着けてくれた以降陽の目を見ることはなかったわたしのディーゼル

たぶん、いまは埋め立てられて東京の一部になっていることでしょう。

 

とにかく、誰か、特に大切な人に贈り物をする時のあのまさしく"浮き足立つ"感じ。3cmくらいは浮いてるに違いないあれ。

 

喜んでくれるかな、どれが好きかな、これが似合いそうだな、でもこっちの方がいいかな、ああでもこれもいいな

いろんなことがぐるぐる頭をまわって、選べば選ぶほど混乱してくるのに、その時間が楽しくてたまらない。

それは単純に、頭の中がだいすきなひとでいっぱいになるからかもしれないね。

あの人の笑顔とか、驚いた顔とか、そういう自分が知ってる限りの表情を思い浮かべながら勝手なアテレコをしてめっちゃ喜んでくれるというご都合主義な妄想を繰り広げる。

 

散々悩んで悩んで、不安をひと抱きしながら渡すその瞬間までが、贈り物には詰まっている。

そう思うと、贈り物、尊すぎる。

 

自分が貰う側だと考えてみてよ。

だいすきなひとが自分のことで頭をいっぱいにしてたくさん悩んで(まあもしかしたら全く悩まず買うこともあるかもしれないけど)これだと決めてドキドキしながら今差し出しているのかと思ったら、プレゼントとはなんて愛おしいんだ!!!と叫びだしたくなりませんか。

 

などといま5cmほど浮きながら書いています。

今年の誕生日プレゼントを、果たして恋人は喜んでくれるでしょうか。

ドキドキが詰まりすぎて重いプレゼントを隠し持って、とびきり可愛い女の子になって、ひとつ年が離れた恋人に会いに行く。