完璧じゃなくても死なない
思えばこの約1年、予定がない限り、
平日は母の夕飯と自分のお弁当、
休日はブランチと夕飯を作ってきたけど、
買ってきたお惣菜を出したり出前にしたことはなかった。パスタだって必ずソースを作ったし、そうめんなのにおかずもちゃんといくつか作った。
冷凍の餃子を焼いたことは3回くらいあるけど。
世の主婦はそれが当たり前かもしれない。それができる人もいるかもしれないけど、それができなきゃいけないわけじゃないのかもしれない。
でももしかしたらわたしはもう少し、手を抜いてもいいのかもしれない。
完璧にしようとしなくてもいいのかもしれない。
多分何かがキャパオーバーになっていて、お風呂に浸かった瞬間どうしようもない悲しさに襲われたのに
感情に比例するように泣くことができなかった。
泣きたいのに泣けなかった。
1日中自分を責める気持ちと理由ない負の感情に追い詰められて、
1年前のわたしはこんな状態で接客してたのかよと思うと、我ながらドン引きする。
完璧であろうとしてるわけじゃないんだけど、完璧を目指しているのかもしれない、無意識に。
そういう人、たぶんいっぱいいると思う。
わたしも含めてだけど、実はもっと手を抜いてもいいんだじゃないだろうか。
自分のために。生きるために。
完璧じゃなくても死なない。
昔痴漢にあった時の痴漢より許せない男の話
https://twitter.com/310_64/status/867022176284573696
このツイートを読んでどうしてもあの男の話がしたいと思ったので書きます。
タイトルの通り、昔痴漢にあった時に出会った痴漢より許せない男の話。
高3の夏休み、部活に向かう朝の地下鉄で痴漢に遭いました。
女から見てもちょっと流石にどうなのという超ミニスカートどころか、薄手のワンピースの夏服は、ウエストを折ることもできないので厳しい校則通り膝にかかる長さ。
まあ今思うと、その「清楚」「純情」な装いはむしろ痴漢の欲望を掻き立てるかもしれない。
とにかく、決して挑発的な格好ではないスカートの上からお尻を触られました。
最初はツイートみたいに、ん?と思うくらいだったんですが、それは明らかに触る手つきに変わって、ああ気持ち悪いと思ったし腹も立った。
絶対に許さないぞという思いで、次の駅に着く直前、「やめてください。」と腕を掴みました。
手が逃れても「お前だ!」と言えるように爪を立てて手に痕もつけた。
それでも所詮は女子高生とオヤジなので、するりと逃れた痴漢は電車のドアが開くと同時に人混みのホームに消えて行きました。
誰も助けてはくれなかった。
声をあげても、誰ひとり取りおさえることもなく、痴漢が逃げて行くのを見てた。満員電車で人はたくさんいたけど、誰ひとり、関わろうとしなかった。
そのまま次の最寄りまで電車に乗り続けたあの時のいたたまれなさ。
恥ずかしさ。
悔しさ。
腹立たしさ。
気持ち悪さ。
問題はここから。
最寄りで降りたわたしをひとりの男が追いかけてきて声をかけました。
「君さっき電車で声あげてたよね?」
助けられなくてごめんとでも言うんじゃないかと一瞬期待したのが馬鹿だった。というか、まさかそんなことを言われるなんて思わなかった。
「何があったか知らないけどさ、許してやってよ?ね?」
そう言い残してエスカレーターを颯爽と上がって行ったあの男。
思考が停止してなければその瞬間、長いエスカレーターから突き落としてやったのにと今でも思う。
見てたのかよ。見てて、あの場にいて、助けなかったのかよ。
女子高生が満員電車で「痴漢です」と声をあげる現場に居合わせて助けない人は多分少なくはない。
面倒に関わりたくない人の多さは仕方がないと思う。
それでも、
「何があったかわからない」なら、
なんで「許してやってよ」なんて言えるんでしょうね。
やめてくださいってどう考えても痴漢だなって分かるよな、その上で被害者に「許してやってよ」と言えるその精神は6年経った今でも微塵も理解できません。
痴漢はもちろん死ぬか去勢されるべきなんですけど、世の中にはもっと信じられない許せない人もいるようです。
あの時あの男はなんでわたしにあんなことを言ったのか。
何も言われない方がよっぽどマシだった。
あの男に言われたことが悔しくて悔しくて、泣きました。
だったらお前も触られてみろよ。
どうかもし痴漢の現場に居合わせたら、力になってあげてください。
見ず知らずの男に突然撫で回される気持ち悪さ、触られましたと申告する勇気を考えてあげてほしい。
もしあの時に戻れるなら、あの男を絶対にエスカレーターから突き落とす。
そのくらい、痴漢よりも許せない男の話。
仕事、どう?
仕事をしていると毎日打ちのめされる。
フェイスブックの投稿でさえ、頭から煙が出るくらい何度も何度も書き直して2割でも納得できたら良い方。
何を言いたいのか、何を伝えたいのか、どうやったらそれが短い文章で伝わるのか、文章の温度感もいまだに掴めず毎日毎日悩みながら書いてる。
ああ今日も全然うまく書けなかったって不甲斐なさと一緒に歩く帰り道、
インスタグラムを開いたら、先輩が書いた新しい言葉が自社のポストながら胸に刺さる。
あーこのキャプション、ちょういいなあ...と思いながらいいねする。
悔しくて泣きそうにもなる。
わたしは、そんな風に、
誰かの中にぐっと刺さって、ああいいなあって思われるようなそんな文章を書けるようになりたい。
何回寝たらお正月がくるのかはわかっても、
何回書いたら誰かの心に言葉を響かせられるのかは全然わからない。
もしかしたらもっとシンプルでいいんじゃないか。肩肘張りすぎなんじゃないか。
でも、もしかしたらもっと考えなきゃいけないのかもしれない。もっと狙わなきゃいけないのかもしれない。もっと、もっと、もっと。
もっと才能があったらよかった。
才能がないわたしには無理なのかもしれない。
でも、みんなきっと同じように仕事してるって思ってもいいですか。
みんなもこうやって毎日打ちのめされながら、毎日反省しながら、毎日自分は向いてないのかもって思いながら、それでも辞めたくなくて頑張ってるって思ってもいいですか。
そうだとしたら、
頑張ろうね、みんなで。
会ったこともない顔も知らないみんなで。
あなたの細胞ひとつさえ
高校2年の時、倫理がいちばん好きだった。でも授業で聞いたことの大半は忘れてしまって、ただひとつだけ、はっきりと覚えていることもある。
どれほど愛する人を失っても、どんなに苦しんでないて死にそうになっても、あなたの細胞ひとつさえ壊れてはくれない
当時もその言葉にハッとさせられたけど、大きな喪失を知った上で思い出すととんでもない威力だ。
どれだけ悲しいことが起ころうとも、傷つくのは心だけ。逆に言えば心は傷つき放題に傷つく。すり減ってすり減ってもうなくなるんじゃないかというくらいすり減ることもできる。
うつ病になるかもしれない。自殺を試みるかもしれない。2度と恋愛はできないと思うかもしれない。人間不信になるかもしれない。
大学2年の時、あの人との恋が終わった。罵倒、批判、時に暴力、支配と服従、怯え、執着、依存、そういう恋だった。でもたぶんあれは、愛だった。ほんの少しアイスピックが突いただけで粉々になるようなレプリカの愛だった。
それでも体が引きちぎれると思った、本気で。水さえろくに喉を通らず、ベッドから起き上がる気力さえなかった。恋愛ごときで、と馬鹿らしく情けなくも思うのに、心は壊れ体は動かなかった。
でも、わたしの細胞はなにひとつの変化もなかった。わたしはわたしのままだった。働かない頭にふと思い返されたあの言葉は、わたしを救った。
わたしはまだ若い。先々週、23になった。人生はまだまだ長い。
この先心もプライドもズタズタになる時もきっとある。でもその時まだ君は、細胞を失うわけじゃない。いくらだって再生していける。そうしようと思えば。
だから、傷つくことも、傷つけることも、恐れずに生きてほしい。自分の幸せをちゃんと選んでいってほしい。独りで戦うことも、たまにはやめた方がいい。
愛されることを、求めていい。幸せになりたいと願っていい。
細胞は悲しみを受けない。愛はどうだろう。「君の細胞ごと愛してるよ」と言われたら、細胞は喜びの分裂とか、するのだろうか。
恋ほど厄介なものはないのに、私たちは懲りずに誰かを好きになる。
戻れない道を戻れないと知っていて行く。茨の道さえかき分けて傷だらけになりながらもその道を行く。休むことはできない。引き返す道はない。道無き道を作り出して抜け出すより他ない。
誰かの細胞を愛することはできても、誰かの細胞を傷つけることはできない。だから愛は強いのだと思う。だからひとは、愛してるの響きで強くなれるのだ。
愛するという挑戦。
愛されるという覚悟。
どちらも、今のわたしにはない。でもなにがあろうと、わたしの細胞は死なない。
こい こひ 【恋】 《名・ス自他》
ダメだ、と思ったときにはもうダメになっている。
思い返せばわたしの恋はいつもそうだった。ちょっとずつ惹かれていくなんてことはなくて、するものではなくて、瞬間的に落ちる自動詞だった。
塾が一緒だった彼のくしゃっとした笑顔。忘れられないあの人の甘い香り。むやみに人に立ち入らない彼の空気感。
それから、たまごサンド。厚焼きのたまごサンドを食べる姿を見た瞬間、誰かがスイッチを押したみたいに床が開いて、底のない穴に落ちた。
迂闊だった。気が緩んでいた。
全ては、たまごサンドのせい。
厚焼きのたまごサンド、万年筆、ニットから覗くTシャツ、眼鏡の直し方、少し濃いグレーのニューバランス、長いコートと小ぶりなリュック、書類だらけのデスク、多い独り言、マグカップのデザイン。
全てに捉えられて、蜘蛛の巣にかかった蝶の気持ち。そういえばマッキーもそんな歌を歌ってた。
波のない穏やかな湖に似た恋。安心と信頼と、温くて手放すのが馬鹿らしいほどの恋。
雲の上のような人。山を登ったこともないくせに、エベレストを目指すような無謀さ。でも、頂上の景色を、見てみたい。
今ならまだ引き返せるのかどうかも分からずに、曲がりくねった道を行く。
誰のために何のために働きたいのか考えてみた
自分が何をしたらいいのかよく分からなくて、どうしたら自分にとっても会社にとっても気持ちがいい答えになるのかわからなかったけど、ずっと現場にいて最近本社勤務になった先輩に言われた言葉に非常に救われたので覚えておきたい。
めちゃくちゃに酔って据わった目で言われたけど、ハッキリと明瞭な言葉で微笑みながら言われたもんだから、もう少しここにこの会社にいたいと思ってしまった。
例えば、わたしもね、
今は9時に出社して18時に帰る生活をしているけど、
少し前まで会議の後に一緒にご飯を食べていた人たちは今も現場のマネージャーとしてすごく大変で、
でもそれは罪悪感を感じることではなくて、
周りのみんなも誰もわたしを狡いとは言わないんですよ
誰もわたしが楽をしているとは言わないんですよ
だからあなたの今も、同じように、
とてもおおきな流れでそこに収まったのだから、
それはあなたが引き寄せたのだから、
そこで何ができるかなって
そこで何をするかだと思うんですよ
だけどね、現場がすごく大変だというのは絶対に忘れちゃダメなんです
わたしもね、それは絶対に忘れちゃダメだと思ってる
本社に、現場がすごく大変だと分かってる人がいるということがすごく大事なんです
だからあなたはあなたのままで変わらず出来ることを出来るだけやればいいんですよ
「鬱」というものについて
おかしくなったのがいつかは正直もうよく分からない。
大学1年の夏だったとも言えるし、ここ2ヶ月くらいとも言える。
誰かのなんでもない小さな言葉にダメージを受けすぎる性格なのだとわかってはいても、そのなんでもない小さな言葉に大きなダメージを受けずにはいられない。
現場にいるときは日に13時間14時間の労働の中、お客様にも先輩にも店長にも100%以上で接したし常に笑顔は絶やさなかった。
それでも23時を回ってなお退勤時間のめどが立たない時なんかはゴミ捨て場に向かう地下通路を泣きながら歩いた。
疲れや機嫌が大人気ないほど現れる先輩や店長の態度は常にわたしを責めているように感じたし、自分がいかにその人たちにとって迷惑な存在なのかと考えるほど帰り道は線路を見つめた。
本社勤務に移ってからも、人に対して攻撃的な先輩の威圧的な言葉に傷ついては仕事中に薬を多飲したし、今でも些細な指摘が自分を全否定されているような気持ちにさせる。
親の離婚裁判もなかなかにあったまってきて、ここのところ提出用の陳述書を書いていた。
父親がどれだけ酷いことをしてきたか、それをわたしはどんな思いで見てきたか、何が真実か。過去20年を振り返って、その中でも思い出したくない記憶を細かく思い出して言葉にするという作業を毎日繰り返す。
ここの表現がどうだ、文末の語調を直せ、あれも加筆しろと毎日毎日仕事中も帰宅後も母親に書面の訂正を強いられること。もうとにかく苦しかった。
そろそろシャワーに紛れて泣くこともできなくなってきた。
呆れて笑うこともできないくらい苦しいのに涙が全然出ないのだ。
めちゃくちゃに泣いてどうにかしたい苦しさを吐き出すことも出来ず溜まる一方の日々は毎朝を苦痛にしていく。
睡眠薬を飲んで眠る、朝、なぜとは言えない絶望と一緒に重い体を起こして泣きながら化粧をする。
仕事が嫌なわけではないし上司が嫌なわけでもなくて、ただこの部屋からベットから出たくないというそういう類の感情だと思う。
弁護士代と食費のために仕事を辞めることも休むことも今は選択できない。どれほど苦痛でも、生活するための金を稼ぐ。
病気のデパートみたいな体で手術を控えた母親とろくでなしの姉、サイコパスで詐欺師の父親、その揉め事で親戚とも縁はないので金を頼る場所は自分の仕事か消費者金融くらいしかないのだ。
花を見て可愛いと思う。
パンを焼こうと思って平日の夜に作ることもある。
デートもするし恋人の誕生日プレゼントをウキウキしながら買ったりもした。
仕事にも繋がるようなセミナーに行く予定もある。
だけど常にピアノ線みたいな気持ちで生きてる。
デスクの目の前の大きな窓から見える空の明るさに泣きそうになったり、穏やかな春の風に泣きそうになったり、シャワーを頭から浴びながらうずくまって動けなくなったり、安定剤と眠剤を持たずに出掛けることは怖いし、今日もきっと睡眠薬で眠る。
鬱というもの、自分のことながらよく分からない。
こうやって辛い苦しいって文字にすることもできるという意味では全然良い方なんだろうなとも思う。
でも、他の人のことは知らんし、重症度だって分からんけども、どれほど好きな人がいても毎日漠然とした死を考えるよ。
もし周りに同じように病んでる人がいたら、鬱というのはああだこうだと知ろうとするより、この人はどうなんだとまっすぐじっくり見て考えてあげたらいいと思う。
本当に必要な救いは、適当に、ポテチいる?とかチョコあるよとか、いつもと変わらない温度だったりするもの。