愛の終わりに
愛の終わりに向き合えるのは、終わってからずっと後のような気がする。
もう戻れない、戻らない、それが確かになったときにやっと、見つめられる気がする。
日常のなんでもない名詞をタイトルにつけがちな歌手ことaikoが歌う「線香花火」
久しぶりに聞いたら心がえぐられた。
ぽとっと落ちて地面に溶けていく火種と、
手の中に残ったみすぼらしい持ち手。
愛の終わりは見えなくて、今思い返したらあああそこが終わりだったのかと気づく。
今気づいたところで、みすぼらしい持ち手は取っておくことなんかできないんだけど。
愛はいつか終わる、だから嫌です
何度目の告白をそんな風に突っぱねた。
そしたらあの人は、「そんなことはないって証明してみせる」と言って、そんな胡散臭い自信過剰な言葉にぐらつくくらいには多分もう、好きになってた。
結局、違う子を追いかけて去って行ったひと。
愛の終わりに、わたしたちはなにができるだろう。
愛してた人と、愛してた時間の背中を見送るしかできない。
愛の終わりのその時に、できることはなにもないけど、愛おしかったという事実だけは忘れていきたくない。
輪郭
わたしの恋人は、自分の輪郭をよくわかっている人なんだと思う
彼は自分の幸福をきちんと知っている
他人と自分の線引きが明確で、自分の幸福を真っ当に追求する
そういうところがわたしにはなくて、羨ましくて、ムカついて、愛おしい
鉄腕ダッシュを見ながら、イッテQを見ながら、めそめそ泣いたりする
笑っているんだけどなぜかめちゃくちゃに泣いていたりする
悲しいわけではなくて、なんだろうな、なんでもないんだよ
うすい布団に体を沈めながら丸めた毛布に抱きついて
赤ちゃんみたいに体を丸めて泣いたりする
言葉にできない不安とか、名のない感情に振り回されて、自分の輪郭がよくわからなくなる
ぼわっとぼやけて白いもくもくした何かになったみたいで消えてしまいそうな気持ち
なんかそんな小説があったようななかったような あったような
恋人といる時はあんなにはっきりしていたわたしの輪郭
撫でられるたびしっかりと自分がかたどられていく気がする
なのに今、世界に滲んでいきそうなわたしの輪郭
ずっと彼の隣にいたいと思うけれど、そうして自分の輪郭をなぞり続けるのは、愛にのめり込んでいくようでとても怖いことかもしれない
完璧じゃなくても死なない
思えばこの約1年、予定がない限り、
平日は母の夕飯と自分のお弁当、
休日はブランチと夕飯を作ってきたけど、
買ってきたお惣菜を出したり出前にしたことはなかった。パスタだって必ずソースを作ったし、そうめんなのにおかずもちゃんといくつか作った。
冷凍の餃子を焼いたことは3回くらいあるけど。
世の主婦はそれが当たり前かもしれない。それができる人もいるかもしれないけど、それができなきゃいけないわけじゃないのかもしれない。
でももしかしたらわたしはもう少し、手を抜いてもいいのかもしれない。
完璧にしようとしなくてもいいのかもしれない。
多分何かがキャパオーバーになっていて、お風呂に浸かった瞬間どうしようもない悲しさに襲われたのに
感情に比例するように泣くことができなかった。
泣きたいのに泣けなかった。
1日中自分を責める気持ちと理由ない負の感情に追い詰められて、
1年前のわたしはこんな状態で接客してたのかよと思うと、我ながらドン引きする。
完璧であろうとしてるわけじゃないんだけど、完璧を目指しているのかもしれない、無意識に。
そういう人、たぶんいっぱいいると思う。
わたしも含めてだけど、実はもっと手を抜いてもいいんだじゃないだろうか。
自分のために。生きるために。
完璧じゃなくても死なない。
昔痴漢にあった時の痴漢より許せない男の話
https://twitter.com/310_64/status/867022176284573696
このツイートを読んでどうしてもあの男の話がしたいと思ったので書きます。
タイトルの通り、昔痴漢にあった時に出会った痴漢より許せない男の話。
高3の夏休み、部活に向かう朝の地下鉄で痴漢に遭いました。
女から見てもちょっと流石にどうなのという超ミニスカートどころか、薄手のワンピースの夏服は、ウエストを折ることもできないので厳しい校則通り膝にかかる長さ。
まあ今思うと、その「清楚」「純情」な装いはむしろ痴漢の欲望を掻き立てるかもしれない。
とにかく、決して挑発的な格好ではないスカートの上からお尻を触られました。
最初はツイートみたいに、ん?と思うくらいだったんですが、それは明らかに触る手つきに変わって、ああ気持ち悪いと思ったし腹も立った。
絶対に許さないぞという思いで、次の駅に着く直前、「やめてください。」と腕を掴みました。
手が逃れても「お前だ!」と言えるように爪を立てて手に痕もつけた。
それでも所詮は女子高生とオヤジなので、するりと逃れた痴漢は電車のドアが開くと同時に人混みのホームに消えて行きました。
誰も助けてはくれなかった。
声をあげても、誰ひとり取りおさえることもなく、痴漢が逃げて行くのを見てた。満員電車で人はたくさんいたけど、誰ひとり、関わろうとしなかった。
そのまま次の最寄りまで電車に乗り続けたあの時のいたたまれなさ。
恥ずかしさ。
悔しさ。
腹立たしさ。
気持ち悪さ。
問題はここから。
最寄りで降りたわたしをひとりの男が追いかけてきて声をかけました。
「君さっき電車で声あげてたよね?」
助けられなくてごめんとでも言うんじゃないかと一瞬期待したのが馬鹿だった。というか、まさかそんなことを言われるなんて思わなかった。
「何があったか知らないけどさ、許してやってよ?ね?」
そう言い残してエスカレーターを颯爽と上がって行ったあの男。
思考が停止してなければその瞬間、長いエスカレーターから突き落としてやったのにと今でも思う。
見てたのかよ。見てて、あの場にいて、助けなかったのかよ。
女子高生が満員電車で「痴漢です」と声をあげる現場に居合わせて助けない人は多分少なくはない。
面倒に関わりたくない人の多さは仕方がないと思う。
それでも、
「何があったかわからない」なら、
なんで「許してやってよ」なんて言えるんでしょうね。
やめてくださいってどう考えても痴漢だなって分かるよな、その上で被害者に「許してやってよ」と言えるその精神は6年経った今でも微塵も理解できません。
痴漢はもちろん死ぬか去勢されるべきなんですけど、世の中にはもっと信じられない許せない人もいるようです。
あの時あの男はなんでわたしにあんなことを言ったのか。
何も言われない方がよっぽどマシだった。
あの男に言われたことが悔しくて悔しくて、泣きました。
だったらお前も触られてみろよ。
どうかもし痴漢の現場に居合わせたら、力になってあげてください。
見ず知らずの男に突然撫で回される気持ち悪さ、触られましたと申告する勇気を考えてあげてほしい。
もしあの時に戻れるなら、あの男を絶対にエスカレーターから突き落とす。
そのくらい、痴漢よりも許せない男の話。
仕事、どう?
仕事をしていると毎日打ちのめされる。
フェイスブックの投稿でさえ、頭から煙が出るくらい何度も何度も書き直して2割でも納得できたら良い方。
何を言いたいのか、何を伝えたいのか、どうやったらそれが短い文章で伝わるのか、文章の温度感もいまだに掴めず毎日毎日悩みながら書いてる。
ああ今日も全然うまく書けなかったって不甲斐なさと一緒に歩く帰り道、
インスタグラムを開いたら、先輩が書いた新しい言葉が自社のポストながら胸に刺さる。
あーこのキャプション、ちょういいなあ...と思いながらいいねする。
悔しくて泣きそうにもなる。
わたしは、そんな風に、
誰かの中にぐっと刺さって、ああいいなあって思われるようなそんな文章を書けるようになりたい。
何回寝たらお正月がくるのかはわかっても、
何回書いたら誰かの心に言葉を響かせられるのかは全然わからない。
もしかしたらもっとシンプルでいいんじゃないか。肩肘張りすぎなんじゃないか。
でも、もしかしたらもっと考えなきゃいけないのかもしれない。もっと狙わなきゃいけないのかもしれない。もっと、もっと、もっと。
もっと才能があったらよかった。
才能がないわたしには無理なのかもしれない。
でも、みんなきっと同じように仕事してるって思ってもいいですか。
みんなもこうやって毎日打ちのめされながら、毎日反省しながら、毎日自分は向いてないのかもって思いながら、それでも辞めたくなくて頑張ってるって思ってもいいですか。
そうだとしたら、
頑張ろうね、みんなで。
会ったこともない顔も知らないみんなで。
あなたの細胞ひとつさえ
高校2年の時、倫理がいちばん好きだった。でも授業で聞いたことの大半は忘れてしまって、ただひとつだけ、はっきりと覚えていることもある。
どれほど愛する人を失っても、どんなに苦しんでないて死にそうになっても、あなたの細胞ひとつさえ壊れてはくれない
当時もその言葉にハッとさせられたけど、大きな喪失を知った上で思い出すととんでもない威力だ。
どれだけ悲しいことが起ころうとも、傷つくのは心だけ。逆に言えば心は傷つき放題に傷つく。すり減ってすり減ってもうなくなるんじゃないかというくらいすり減ることもできる。
うつ病になるかもしれない。自殺を試みるかもしれない。2度と恋愛はできないと思うかもしれない。人間不信になるかもしれない。
大学2年の時、あの人との恋が終わった。罵倒、批判、時に暴力、支配と服従、怯え、執着、依存、そういう恋だった。でもたぶんあれは、愛だった。ほんの少しアイスピックが突いただけで粉々になるようなレプリカの愛だった。
それでも体が引きちぎれると思った、本気で。水さえろくに喉を通らず、ベッドから起き上がる気力さえなかった。恋愛ごときで、と馬鹿らしく情けなくも思うのに、心は壊れ体は動かなかった。
でも、わたしの細胞はなにひとつの変化もなかった。わたしはわたしのままだった。働かない頭にふと思い返されたあの言葉は、わたしを救った。
わたしはまだ若い。先々週、23になった。人生はまだまだ長い。
この先心もプライドもズタズタになる時もきっとある。でもその時まだ君は、細胞を失うわけじゃない。いくらだって再生していける。そうしようと思えば。
だから、傷つくことも、傷つけることも、恐れずに生きてほしい。自分の幸せをちゃんと選んでいってほしい。独りで戦うことも、たまにはやめた方がいい。
愛されることを、求めていい。幸せになりたいと願っていい。
細胞は悲しみを受けない。愛はどうだろう。「君の細胞ごと愛してるよ」と言われたら、細胞は喜びの分裂とか、するのだろうか。
恋ほど厄介なものはないのに、私たちは懲りずに誰かを好きになる。
戻れない道を戻れないと知っていて行く。茨の道さえかき分けて傷だらけになりながらもその道を行く。休むことはできない。引き返す道はない。道無き道を作り出して抜け出すより他ない。
誰かの細胞を愛することはできても、誰かの細胞を傷つけることはできない。だから愛は強いのだと思う。だからひとは、愛してるの響きで強くなれるのだ。
愛するという挑戦。
愛されるという覚悟。
どちらも、今のわたしにはない。でもなにがあろうと、わたしの細胞は死なない。
こい こひ 【恋】 《名・ス自他》
ダメだ、と思ったときにはもうダメになっている。
思い返せばわたしの恋はいつもそうだった。ちょっとずつ惹かれていくなんてことはなくて、するものではなくて、瞬間的に落ちる自動詞だった。
塾が一緒だった彼のくしゃっとした笑顔。忘れられないあの人の甘い香り。むやみに人に立ち入らない彼の空気感。
それから、たまごサンド。厚焼きのたまごサンドを食べる姿を見た瞬間、誰かがスイッチを押したみたいに床が開いて、底のない穴に落ちた。
迂闊だった。気が緩んでいた。
全ては、たまごサンドのせい。
厚焼きのたまごサンド、万年筆、ニットから覗くTシャツ、眼鏡の直し方、少し濃いグレーのニューバランス、長いコートと小ぶりなリュック、書類だらけのデスク、多い独り言、マグカップのデザイン。
全てに捉えられて、蜘蛛の巣にかかった蝶の気持ち。そういえばマッキーもそんな歌を歌ってた。
波のない穏やかな湖に似た恋。安心と信頼と、温くて手放すのが馬鹿らしいほどの恋。
雲の上のような人。山を登ったこともないくせに、エベレストを目指すような無謀さ。でも、頂上の景色を、見てみたい。
今ならまだ引き返せるのかどうかも分からずに、曲がりくねった道を行く。