「鬱」というものについて
おかしくなったのがいつかは正直もうよく分からない。
大学1年の夏だったとも言えるし、ここ2ヶ月くらいとも言える。
誰かのなんでもない小さな言葉にダメージを受けすぎる性格なのだとわかってはいても、そのなんでもない小さな言葉に大きなダメージを受けずにはいられない。
現場にいるときは日に13時間14時間の労働の中、お客様にも先輩にも店長にも100%以上で接したし常に笑顔は絶やさなかった。
それでも23時を回ってなお退勤時間のめどが立たない時なんかはゴミ捨て場に向かう地下通路を泣きながら歩いた。
疲れや機嫌が大人気ないほど現れる先輩や店長の態度は常にわたしを責めているように感じたし、自分がいかにその人たちにとって迷惑な存在なのかと考えるほど帰り道は線路を見つめた。
本社勤務に移ってからも、人に対して攻撃的な先輩の威圧的な言葉に傷ついては仕事中に薬を多飲したし、今でも些細な指摘が自分を全否定されているような気持ちにさせる。
親の離婚裁判もなかなかにあったまってきて、ここのところ提出用の陳述書を書いていた。
父親がどれだけ酷いことをしてきたか、それをわたしはどんな思いで見てきたか、何が真実か。過去20年を振り返って、その中でも思い出したくない記憶を細かく思い出して言葉にするという作業を毎日繰り返す。
ここの表現がどうだ、文末の語調を直せ、あれも加筆しろと毎日毎日仕事中も帰宅後も母親に書面の訂正を強いられること。もうとにかく苦しかった。
そろそろシャワーに紛れて泣くこともできなくなってきた。
呆れて笑うこともできないくらい苦しいのに涙が全然出ないのだ。
めちゃくちゃに泣いてどうにかしたい苦しさを吐き出すことも出来ず溜まる一方の日々は毎朝を苦痛にしていく。
睡眠薬を飲んで眠る、朝、なぜとは言えない絶望と一緒に重い体を起こして泣きながら化粧をする。
仕事が嫌なわけではないし上司が嫌なわけでもなくて、ただこの部屋からベットから出たくないというそういう類の感情だと思う。
弁護士代と食費のために仕事を辞めることも休むことも今は選択できない。どれほど苦痛でも、生活するための金を稼ぐ。
病気のデパートみたいな体で手術を控えた母親とろくでなしの姉、サイコパスで詐欺師の父親、その揉め事で親戚とも縁はないので金を頼る場所は自分の仕事か消費者金融くらいしかないのだ。
花を見て可愛いと思う。
パンを焼こうと思って平日の夜に作ることもある。
デートもするし恋人の誕生日プレゼントをウキウキしながら買ったりもした。
仕事にも繋がるようなセミナーに行く予定もある。
だけど常にピアノ線みたいな気持ちで生きてる。
デスクの目の前の大きな窓から見える空の明るさに泣きそうになったり、穏やかな春の風に泣きそうになったり、シャワーを頭から浴びながらうずくまって動けなくなったり、安定剤と眠剤を持たずに出掛けることは怖いし、今日もきっと睡眠薬で眠る。
鬱というもの、自分のことながらよく分からない。
こうやって辛い苦しいって文字にすることもできるという意味では全然良い方なんだろうなとも思う。
でも、他の人のことは知らんし、重症度だって分からんけども、どれほど好きな人がいても毎日漠然とした死を考えるよ。
もし周りに同じように病んでる人がいたら、鬱というのはああだこうだと知ろうとするより、この人はどうなんだとまっすぐじっくり見て考えてあげたらいいと思う。
本当に必要な救いは、適当に、ポテチいる?とかチョコあるよとか、いつもと変わらない温度だったりするもの。