優しさという暴力
いまはその優しさがつらい、とかつての恋人に言われたことがある。
いまならわかる、優しさは暴力だ。
当時のわたしは、傷ついてボロボロになっているあの人がとにかく少しでも楽になってくれたらいいと必死だった。
いろんな言葉をかけたし、あの人が好きだったチョコレートも送った。
ただ笑って欲しくて、ただ元気になって欲しくて、全部よかれと思ってやったこと。
「今はあの子以外からの優しさがつらい」
優しさを拒絶されるなんて思ってもみなかった。
今思えばなんて幸せな人だったんだわたしは。
優しくするということは、相手にその"優しさ"を押し付けるということなんだと思う。
わたしたちはそれを拒否しちゃいけない、だって誰かが自分のためを思ってしてくれたことだから。
それを拒否するのは嫌な奴だから。ひどい人だから。
でも本当にそうなのでしょうか。
優しさは、誰かに受け取られてはじめて優しさになる。
優しくされたらそれを受け入れなきゃいけないなんて、そんな苦しいことってない。
誰かが優しくしてくれる、自分のためを思って最大限の配慮をしてくれる、それに感謝して、言葉や行動をありがたく頂戴する。
それが、苦しいこともある。
誰かが自分にかけてくれる思いを受け取ることが苦しくて仕方がない。
だけど自分を思ってしてくれているのだからとその暴力に静かに耐える。
誰かの思いを受け止めるのはとてつもないエネルギーを要する。
愛される覚悟、優しくされる強さ。
ただれた体に水を与えたら人が死ぬように、愛や優しさも、いつか誰かを殺すかもしれない。
そのとき誰を責められるのか。
誰が悪いわけでもない。そう言って欲しい、優しさを受け止められないことはひどいことじゃないよと言って欲しい。
優しさは暴力だ。
わたしもまた誰かを傷つけて生きている。